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おことわり この雑誌は、30歳以下の読者を想定しておりません。
ゆえに、しばしば若者には意味不明な言葉や、見たこともないモノが登場します。
とくに説明などいたしませんので、そのつもりでお読みください。

LAPITA

interview

高橋団吉 ・ 文

柳沢牧嘉・撮影

大人の少年よ、
   大志を抱け!

秋田の美容室から、
宇宙に羽ばたく夢を持つ男

広大な干拓農地のド真ん中に全長18kmの滑走路を作り、
そこにスペースシャトルを着地させる。
そんな気宇壮大な夢を実現させるために、ソーラーカー・ラリーを開催しなが
ら若きエンジニアを育てている男がいる。
本業は美容師。
彼はまた、ヘアカットの腕一本で大冒険を成就せしめる、
「痛快な大人の少年」でもあった。

それは、美容室の客である県知事婦人の一言から始まった

大潟村といえば、米所である。
ラピタ世代には、八郎潟の干拓地といえば通りが良いかもしれぬ。
見渡す限り、田んぼ。その面積は、東京・山の手線内のざっと3倍もある。
その広大な干拓農地のド真ん中を、舗装路が一直線に切り裂いている。
「ソ−ラ−・スポ−ツ・ライン」
幅15m、片道2車線、往復31kmのソーラーカー・ラリー専用コースである。

実は、このコースは、当初スペースシャトルの滑走路として、NASAとは全く無関係に計画された。
その勝手な大計画の言い出しっぺが、秋田市内で美容院を営んでいた山本久博である。

「もう、かれこれ12〜13年も前の事ですから、まだバブル絶頂期のころの話です。うちの美容室に、県知事(佐々木喜久治)婦人がお客さんで見えてらして、僕にこういうんです。秋田県総合発展計画というものがあって、広く県民からプランを公募している。若い人を喜ばせる元気なアイデアを出してみてほしい・・・」

当時、秋田県はヤミ米騒動で揺れていた。
ヤミ米の是非をめぐって大潟村の農家が真っ二つに分かれ、ヤミ米を検閲して止めようとする県と、村が鋭く対立する。
村が県を訴え、県が村を締め上げる。
そのディテールがニュースとなって全国に流された。

「同じ秋田県民として、こんなにみっともないことないっしょ」
山本は車を大潟村に走らせ、村を一望の下に見渡せる寒風山に駆け登り、山頂で腕組みして、まるで戦国武将さながらに考えた。
「見ると、農地がパッチワ−ク状なんですよ。ヤミ米反対派の農家が、減反政策に従って青田刈りをしている。それを眺めていて、ははぁ! と閃いた。このパッチワークを一本につなげれば、巨大な滑走路ができるじゃないか」

大潟村では、約600所帯が所帯あたり15haの耕地を持つ。水利、日照の条件差は皆無に近い。
つまり土地を等価交換する条件が整っている。売却希望の農家の土地を交換しながらつなげていけばどんな形の敷地でも確保できる。

山本がまず考えたのは、ここに全長18kmの滑走路を作って、スペースシャトルに降りてきてもらうことだった。

「日本の滑走路は、せいぜい4km。スペースシャトルの降りるエドワード空軍基地の滑走路は20kmもあるんです。国内でそんなに長い滑走路を作れる場所は、大潟村をおいて他にない。じゃ、緊急避難用滑走路を作っちゃおう。当時は、宇宙開発たけなわの時代で、日本でもミニ・スペースシャトル、スペースプレーン計画などが声高に語られていました。ゆくゆくは大潟村に一大宇宙開発研究センターを作ろうと夢見たわけです」

このとき山本の提出したプラン「コスモ・プロジェクトin秋田」は、審査会で全会一致の最高評価を得たが、あまりにも気宇壮大だったので次点となった。しかし若干の調査費が出た。県が表には立てないが、民間ベースで予備調査を進めてほしい・・・という。

さっそく山本たちは、秋田宇宙開発会議なる組織を立ち上げ、宇宙開発事業団など関係諸機関に実現可能性の打診をはじめる。しかし、すぐに壁に突き当たった。

「誰も大潟村を知らないんです。まず、村を知ってもらうこと、村に来てもらうことから始めなくちゃいけない。そこで、理工系の学生たちが夢中になるイベントとして、ソーラーカー・ラリーを計画しました。彼らこそ、将来の宇宙開発を担う金の卵たちだからです」

こうして、第一回「ワ−ルド・ソ−ラ−カ−・ラリ−in秋田」が1993年8月に開かれた。

村内の広域農道35kmを閉鎖して丸々3日間の開催である。山本は競技委員長として奮闘し、大会は大好評のうちに閉幕した。後で調べてみると、最大の魅力は、国内ではまね出来ぬコースの長さらしい。
ならば、専用コースを作ってしまおう。山本は当時の宮田村長をこんなふうに口説き落とした。
「村長、あなたの在任中に評価されることはたぶんないと思いますが、30年、50年後には、秋田に宇宙への道筋をつけた村長として顕彰されるかもしれませんよ」

宮田は二つ返事でOKした。
こうして、翌'93年夏には、大潟村の中心を走る水路沿いに往復31kmの専用コースができてしまう。
総建設費は16億8千万円。建設工事は、3分の1を秋田県、3分の2を大潟村が担当した。

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