第四章 ウェーブ


市役所に戻ると、さっそく寺田助役の部屋を訪ね、今見て来た東台沢の事を報告する。

「そうですか・・・、良い所が見つかりましたか・・・。」
「ええ、 偶然見つけたんですが、こんなに良い場所があるとは思いませんでした。正直言ってびっくりしました・・・。」
「それでは今、その東台沢地区の地図を揃えさせますので、さっそくプランニングに着手して頂けませんか?。それとだいたいの建設費も早く分かるとあり難い・・・。それを基に、私どもが出資して貰えそうな企業に当たって見る事にします。」
「分かりました、それでは帰り次第、さっそく当たらせる事にします・・・。本当の叩き台ですからひと月もあればまとめられると思います・・・。」
「宜しくお願いします・・・。」

寺田助役との打ち合わせが済み、市役所を後にすると、横井のリクエストで、霞のS600で空港迄送る事になる・・・。
シルバーのS600クーペは、こんな事もあろうかと、丁寧に磨き込まれていて、いつになく輝いていた。
「綺麗なS600ですね・・・!」
「ありがとうございます・・・。でも、まだレストア前なのであまり見られると恥ずかしいです。もう一台のオープンボディの方はバッチリと仕上がっているんですが・・・。」

「と言うと、2台持っているんですか? エスロクを・・・?」
「ええ、 街乗りと雨の日はこのクーペ、 長距離と遊びの時はオープンボディ、と使い分けているんです・・・。」
「そいつはすごい! いまどきS600を2台も持っている人なんて、全国を探してもあなただけでしょうね・・・。それに、とても程度が良い!、よく整備が行き届いていますね。」
「ええ、 とても腕の良いメカニックが付いているんです。」
「でしょうね、でなければとてもこうは走りませんよ・・・。」
「じつは・・・・」
横井がしみじみと話し始めた・・・・

「いまの会長、本田宗一郎を僕らはオヤジと呼んでいるんですが・・・、そのオヤジが、それ迄オートバイしか造った事のなかった我々に向かって、何が何でも四つ車を造れ・・・って命令を出したんですよ。 嬉しかったですね・・・、寝る間も惜しんで開発に明け暮れたものですよ。」

「とにかくホンダが造るんだから世界一の車でなきゃ駄目だ・・・!、と言い張って、とにかくコストだとか、造り易さなんて二の次にして、性能と格好良さを追及したんでしたよ・・・。」
「ちょうどその頃、F−1グランプリに初めて参加した頃でもあった訳で、このエンジン特にクランクシャフトなんてF−1マシンとほとんど変わらないくらいの凝ったものを使っているんですよ・・・。 だから、オイルさえしっかり診ていてやれば、本当に丈夫で良く回る筈ですよ・・・。」
「本当におっしゃるとおりですわ・・・。」
「この車が完成した時・・・、正確には500ccだったのですが、型式認定という一連のお役所の試験を受ける事になった時なんですがねー・・・。」

「オヤジさんが、横井、お前行ってこい!・・・、と云うものですから、勇んで其の出来たての真っ赤なスポーツカー・・・、なにせオヤジさんは赤いスポーツカーを造るのが夢だったものですから最初は真っ赤に塗ったそのスポーツカーを試験場に持ち込んだんですよ。」
「そうしたら立ち会った役人が、この車は赤いから駄目だと言い出したんですよ。 頭にカーッと血が上って、何で赤が駄目なんだと、喰って掛かったんですけれど、赤は消防車と、郵便ポストの色だから、そんな色の車を試験する訳には行かない・・・、と言い張るんですよ。」
「会社に帰ってオヤジさんにその事を報告すると・・・、『そんな事を言われてもどって来る奴があるか!、国家が国民から色を奪いあげるなんて絶対に許せん・・・!』と言い出しちゃって、それはもう大変だったんですよ・・・。」
「それで・・・?」

「オヤジさんをようやくなだめて、それでは・・・と、純白に塗った2号車を持って行ったんです。 そしたら今度は、白は救急車の色だときましてね・・・。結局は新参のメーカーに対する愛の鞭だったんでしょうが、すっかり困ってしまいましてね・・・。」
「でしょうね・・・、 で、どうなさったんですか? 其の時横井さんは・・・?」
「其のまま帰る訳には行きませんしね・・・・。 粘りに粘ったあげくに、土下座をしましたよ、私を助けると思って試験をしてくれ・・・・と。」

「そうしたら担当の役人も、ようやく気が変ってくれましてね・・・。『横井さん、分かりました。あなたの立場も分かりますが、私も私の立場があります。どうですか、このようになさっては・・・?』 と云って教えてくれたのが、1号車、つまり赤い方のドアとボンネット、トランクを外して持って来させて、この白い車のと付け替えさせる・・・。
そうすればツートンカラーで綺麗ですよ・・・・とね。」
「まあ・・・・!」
「まったく、冗談のような話なんですが、実際に、こんなふうにして産まれた車なんですよ、こいつは・・・。あの時もしも認可が取れなかったら、今頃まだオートバイしか造っていなかったかもしれません・・・・。」
「そうだったんですか・・・・、ますますこの車が好きになってしまいました・・・。」
「そうですとも、この車は絶対に大切に乗ってやって下さい・・・。私からもお願いします・・・。 うちの社内でも、この車だけは絶対にパーツを切らすな!、って至上命令が出ているんです、大概のパーツはすぐに手に入る事になっていますから安心していて下さい。」
「ありがとうございます・・・。とても心強いです・・・。」
「この次に秋田に来る時は、是非オープンボディの方も見せて下さい・・。懐かしい・・・!、実に懐かしい・・・!。」

霞と横井が、S600の身の上話に花を咲かせている間に、走り慣れた道を空港に着いてしまう。
二階の搭乗ゲートまで横井を見送った後、霞はひとりでパーキングで待っているS600クーペに向かって歩き出す・・・。」
「そう・・・、君はずいぶん難産だったんですってね・・・・。でも、産まれて来て良かったでしょ・・・、特にこんな素敵なオーナーに恵まれて・・・・ね!、・・フフフ」
心の中で、クスクス笑う霞であった。

師走に入り、街中がクリスマスの飾り付けで華やかに彩りを増した頃、霞のサロン<ウェーブカンパニー>も例年のごとく、かきいれ時を迎えていた。
常連の客を数名、立て続けに仕上げてひと息ついた所に、マネージャーの結城美保が寄って来る。
「先生、お電話が入っています。シェレル社の秘書の方だそうです。」
「シェレル・・?、あのシェレル・・?。」
「多分そうだと思います・・・。」
「うちはシェレルの取引は無いわよね・・・。」
「ええ、3年前迄、<アンドラ・ドゥ>を単品で取ってましたけど、今は全くありません。」
「とりあえず聞いてみるわ・・・・。」
「もしもし、お待たせしました、秋山です。」
「どうもお忙しい所を、申し訳ありません。私、パリ・シェレル社の日本における窓口になりますコスミート・フランス社の社長、ディリー・アンジュラスの秘書をしております大野と申します。」
「実は、私どもの社長が、秋山さんの開発したパーマネントシステムの事を、詳しく知りたいと申しておりまして、もし宜しければ、資料を頂ければと思い、ご連絡した訳なのですが・・・・。」

「分かりました。ヴェールパームの事ですね・・・。でも、あのパームは、半年ほど前から日本のレノン社と、独占契約を結んで販売が始まっているんですけれども・・・、其の商品で宜しいのですね・・・。」
「ええ、存じております・・・。私どもの社は、日本のシェレル・ジャポン社とは違いますから、日本でのビジネスはお気になさらなくても結構です。それと、商品になっているものは既に手元にありますので、其のほかの詳しい資料を頂ければとても助かります。」
「そうですか・・・、それではさっそく送らせます・・・。」

霞は、マネージャーの結城に電話の内容を伝え、資料を送る指示を出した・・・。
ヴェールパームとは、波打っている2枚のプラスチックの板で毛束をはさみ、薬液処理をする事により、カールにならない綺麗なウェーブが出せるように、霞自身が開発した、全く新しいパーマネント技法であった。
日本での独占販売の契約を、以前から付き合いのあるレノン社と交わし、其の契約金600万円を、全て海外の特許取得の為の費用に支払ったのであった。
其の思いきりの良い金の使い方に、周囲の者たちは飽きれたものであったが・・・
「いずれ、このお金は、夢から産まれたものでしょ・・・。だから、もっと大きな夢・・・、世界中の特許を取得する為に使いたい・・・。」
と言って、すっかり吐き出してしまったのであった。

資料を送って一週間ほど経ったある日、再びコスミート・フランス社の大野から電話が入る。
「先日は大変ありがとうございました。さっそくですが、もし差し支えなければ、出来るだけ早くお目に掛かって、お話を伺いたいと考えておりますが、東京にいらっしゃるご予定はございませんか?」
「来週の火曜日でしたら青山でロケがありますので、夕方5時には伺えると思います。」
「分かりました、それで結構です。それではお待ちしております。」

次の火曜日・・・。
昼前から始めたロケは、2ショット共に、何のトラブルも無く無事に終り、予定通り3時には上っていた。
霞は約束の時間に、飯倉にあるコスミート・フランス社を訪ねた。
「ようこそいらっしゃいました。私、先日お電話を致しました大野です。そして、こちらが私どもの社長ディリー・アンジュラスです。」
「ハジメマシテ、アンジュラスデス。」
「秋山です。」
「さっそくですが、あなたの開発したヴェールパームをパリ本社の研究室の者たちと、細かく検討させて頂きました。まだいくつか改良を必要とする点もありますが、私どもパリ・シェレル社としては、このシステムを全世界に広めたいと考えております。依存はありませんね・・・・。」
「はい、とても有り難いお話だと思います。」
「それでは、簡単に条件を申し上げます。 器具は、私どもの香港支社を通じて、向こうで安く大量に造らせます。 薬液は、来年の春に我が社が発表するパーマ液と組ませるつもりです。其のほかに、ローション等もセットにして、全世界で一斉にプロモーションを行ないます。 もちろんあなたには、パリに飛んでいただき、トレーナーに技術指導をして貰います。」
「はい。」
「それともう一つ、このテクニックも器具も、全てシェレル社が、独自に開発したものである・・・と発表します。」
「この条件で、あなたに対しては、総額1億円で、このシステムに関する、全ての権利を我が社に譲渡して頂きます。」
「といいますと、このテクニックと、特許は全てシェレル社が独占する・・・という事なのですか・・・?」
「そう言う事になります。」
「でも・・・、今現在、レノン社と専用実施権の契約を交わしておりますから、これを解約する事は出来ません・・・・。」
「秋山さん、私どもは年商2000億円を上回る、パリの、シェレル本社ですよ!。日本の小さな会社が、いくら声を張り上げても私どもが先に開発したんだ・・・、と云えば、それで何も文句は出ない筈です。其の件はもう考えて有りますからあなたに迷惑はかけません・・・。」
「いかがですか・・・?、あなたさえ納得してくれれば、今すぐにでも契約しても構いませんよ・・・・。」
「申し訳ありませんが、少しだけ考えさせて下さい・・・、あんまり突然のお話しなものですから・・・。」
「では明日迄待ちましょう・・・、良い返事を待っています。」

何か釈然としないものを感じながら其のビルを後にした霞は、タクシーを拾うと、表参道の沢木の研究所に向かった。
「先生、じつは・・・・」
ほんの一時間ほど前にコスミート・フランス社において交わされた会話の、一部始終を説明して沢木のアドバイスを求めた・・・・。
「へぇー、すごい話だね・・・・。1億円て云うのは一寸した金額だからね・・・。」
「ええ・・、うちのサロンの年商と同じです・・・。確かにすごい金額です・・・・・。

でも・・・、600万円の特許出願料も、レノン社から頂いた契約金だった訳だし・・、
あんまり実感の無い数字なんです。」
「そんなにすごい発明なの・・・?」
「なんか・・・、そうらしいんです・・・。」
「そうか、世界特許か・・・・。」
「でも・・、日本で、しかも私のサロンで生れた技術でしょう・・・。だからそっくりシ
ェレル社に、お金で売り渡してしまうと云うのが、どうも何かすっきりしないんです。」
「ハハハハ・・・、やっぱり日本人だね・・・・。本当に、たしかに大和なでしこなんだな・・・君は・・・。」
「今は、アメリカでもヨーロッパでも、自分の会社を出来るだけ大きくして、適当な頃を見計らって高く売ってしまう、俗にM&Aと呼ばれているんだけど、そこに働く人間を含めた企業売買が、平然と行なわれている時代だよ・・・。」
「いくら自分が産み、育てたものであっても、条件の良い時に売ってしまうのも、ビジネスとしては決して悪くは無いと思うけれどなーー・・・。」
「やっぱり君は純粋培養の大和なでしこなんだ・・・・。」
「そんなものなんでしょうか・・・・。」
「でも、それが君のとっても良い所なんだから・・・・。前にも云ったろう、君は自分の思った事を、其のまま押し通せば、必ず其の通りになる人だって・・・・。」

「一億や二億でプライドを売る事は無い・・・・、プライドは金で買えない・・・・!」
「先生、本当にそう思いますか?」
「霞さんがそう思っている事は確かだろう・・・。」
「えっ、ええ・・・!」
「だったらそうしなさい・・・!、怖がる事は無いと思う・・・。」
「分かりました、このテクニックを売り渡すのはやめます。そして、レノン社にもうしばらく続けて貰う事にします。・・・だって、真っ先に取り上げてくれたんですもの、其のくらいのサービスをしないと申し訳ないような気がして・・・。」
「よし、決定・・・!」
「今晩はもう仕事を終えるから、いっしょに呑みに行こう・・・!」


翌日の午後、再びコスミート・フランス社を訪れた霞は・・・

「昨日は本当に有難いお話を掛けていただき、感謝しております。 一晩じっくり考えたのですが、やはりレノン社には、このシステムを完成させる前から協力をして貰っておりますので、今の段階でそれをそっくり売り渡す事は出来ません。 日本はレノン社、日本以外がシェレル社、しかも日本で開発されたシステムだという事を明確にして頂けなければ、残念ですがこのお話はお受け出来ません・・・・。」
「本気ですか・・?、私どもの会社パリのシェレル社は世界一の化粧品メーカーですよ、世界中どこに行っても美容師は私どもの意向には無条件で従うのが常識ですよ!。」
「分かっております!、フランスの方たちは、とてもプライドが高いと伺っております。 とても生意気なようですが・・・、日本にもフランスの方たちに負けないくらい頑固なプラウドピープルがいる事も理解していただきたいのです・・・。」
「プラウドピープル・・・・ですか・・・。 ちょっとまって下さい、この場からパリの
本社に電話を入れますから・・・。」
しばらくの間、パリの本社とフランス語で話していたアンジュラス氏が・・・・
「本社の役員が、とても信じられないと言っております。我が社の提携を断わる美容師がいたなんて初めての事だと、非常に驚いておりました・・・。」
「申し訳ありません!。」
「いつか、プラウドピープルのあなたを、思い通りに使ってみたいものだと思います。」
「残念ですが、それではこれで・・・・。」

「一億円がパー・・・!」
豪華なたたずまいを見せる其のビルのドアを開けながら・・・、霞は小さく声を出し、苦笑いをしながら六本木の街を歩き出したのであった・・・。

年が明け、もうじきバレンタインデーという声が聞こえ始めた頃・・・
ようやくホンダの横井氏から電話が入る。

「もしもし、霞さんですか?、その節は大変お世話になりました。 連絡が遅くなって御免なさい・・・。実はちょっと立て込んでいたものですから・・・・。」
「ひとつきの予定が、ずいぶん掛かってしまいましたが、例のプラン、基本になる資料が出来上りました。あさってそちらに伺おうと思っていますので、寺田助役にアポイントを取って頂けますか・・・?。」

「分かりました、いよいよですね・・・、楽しみにしております。」
「それではあさって・・・!」

予定の日、例によって秋田空港に出迎えた霞の前に、長い図面ケースを抱えた横井が表われた。
「お久し振りです、見て下さい、このケース・・・、素晴らしいプランが上りましたよ、
世界一のサーキットの・・・・。」
「ありがとうございます、寺田助役も楽しみにしておりました。」

まっすぐに市役所に向かい、助役の部屋に入ると、さっそくそのパースを広げて説明を始めた横井の声は、いつになく自信に溢れ、楽しそうだと霞は感じた。

「一応、メインの東台沢と第二候補の上新庄地区の2か所のプランをまとめてみました。ただし、上新庄の方は土木工事が20億ほど余計に掛かるうえに、出来上がりは東台沢に及ばないので、東台沢を重点的に煮詰めておきました。」

「一周約4km、メインスタンドはここです、東南を向いて斜面を利用した見やすいスタンドになっています。これですと西日に照らされて見ずらいという事もありません。第一コーナーは右の複合です、ここは鈴鹿によく似ています。小さなS字を過ぎると裏のストレート、ここは緩い下りになりそうです、その奥にシケインを設けて一旦スピードを殺します。ここから西に振って複合コーナー、ヘアピンと続き、最後はこの左のヘアピンからメインストレートに立ち上がってきます。」

「全コースの約80%は、スタンドで座ったまま見ることが出来ます。それと、真ん中の調整池はこのまま残し、緊急車両用の道をコース全体に張り付け、いつでもどこからでもすぐに救助に入れるようになっています。この、安全に対するマージンは、世界中のサーキットを探しても無いくらい整ったものにしてあります。」

「総予算は、コース本体、コントロールタワー、ピット、スタンド、パーキング、最小限の宿泊施設を含めて、約76億円になります。」
「実際には、50億からでも、国際格式のコースは可能だとは思いますが、いずれ最終的には、100億ないしは150億、もちろん周辺の施設も含んでですが、そのくらいの規模になるものと考えられます。」

横井が、説明を終えた時、居合わせた者たちから、
「ホーッ、」という溜め息が漏れた。
「何ともすごいものですねー。」
「素材・・・、要するにこの場所があんまりいい場所なので、つい力が入りまして、デザイナーも大喜びでやってくれました。時間はかかりましたけれど、世界に誇れるものになる筈です・・・絶対に!」
「横井さん!、本当に良くやって下さいました。」
「さっそくこのプランを基にして、スポンサーになってくれる企業を探す事にします。いずれ話が進み次第、またお世話になりますので、今後とも宜しくお願いします・・・。」
「助役も是非頑張って下さい・・・。」

その日横井が持ち込んだ図面と工事見積書を参考にして、寺田助役がスポンサー獲得の為に動く事になった。
あとは助役から連絡がある迄、霞たちはじっと待つ事になった。


この年、ターボエンジン使用の最後のシーズンを迎えたF−1グランプリ・・・。
ターボエンジン不利か・・・?。との予想を見事にくつがえし、圧倒的な強さでホンダターボエンジンが、シーズンをリードしていた。
アイルトン・セナと、アラン・プロストを有するマクラーレンチームには、この年から新たにホンダエンジンが提供されることになり、また、去年アクティブサスの採用で注目を浴びたロータスチームは、中嶋悟のパートナーに新たにウィリアムズから移ったネルソン・ピケが加わり、2チーム、計4台のマシンにその世界最強の心臓が提供されていた。

テレビ秋田は、昨年同様、全レースをリアルタイムに近い時間帯でオンエアし、ますますF−1熱を盛り上げていた・・・。
美容室ウェーブカンパニーも、新しいテクニックのヴェールパームが評判を呼び、ますますパーマネントの客が増え、忙しい毎日を送っていた霞であった。
また、東京でのスタジオワークも相変らず、月に2〜3回のペースで引き受けていた。

夏が過ぎたある日・・・
「先生ったら、毎日のようにサロンで働いているのに、休日は休日で東京の仕事を引き受けてしまわれるんだから・・・、もう少しお休みになったらいかがですか・・・?」
マネージャーの結城が心配して言う・・・。
「平気平気!、私、働くの嫌いじゃないから・・・、東京の仕事は息抜きに行くみたいなものだから、全然苦にならないから大丈夫、心配しなくてもいいわよ・・・。」

「本当に言い出したら聞かないんだから・・・・。」
「それと・・・、忙しい先生にこんな話を耳に入れるのもどうかと思ったんですが、一応報告しておきます・・・。」
「技術者の真田君の事なんですが・・・」
高校を出て、すぐに霞のサロンに勤め始めた真田敏夫の事を話し始めた。
「彼、ずいぶん前から、広瀬さんと付き合っていたらしいんです・・・。」
「ヘエー、真田君と広瀬さんがねー・・、でも、似合いのカップルじゃないの・・・。」
「一応、彼等からは付き合い始めて間もない頃に、報告はされていたんです、私も、もう少し様子を見てから先生に報告しようと思っていたんですが・・・。」
「それで?」
「最近になって、広瀬さんのご両親にその事が知れたらしいんです。別に問題はないと思っていたんですが、広瀬さんのお父様は、桑島建設という大手の建設会社の社長で、会社の跡取りになれる者でなければ、結婚させる気は無いと言っているらしいんです。」
「ヘェー、桑島建設ね・・・・。」
「ところが、そうなると、二人とも逆に燃え上がってしまって、何が何でも結婚したいって・・・、そう言うんです・・・。」
「いいじゃないの・・・、結婚させちゃおうよ・・・!。 ちょっと悔しいけれど、彼等
なら、きっと素敵なカップルになれるわよ・・・・。」

「分かりました、じゃ、今夜ちょっとだけでも話をしてやって頂けますか・・?」
「OK!」

その晩、店が終ってから霞の前に表われた二人は、深刻な顔をしていた・・・。
「マネージャーから話は聞いたけれど、本気なの・・・真田君?」
「はい、・・・申し訳ありません・・・。」
「別に謝る事なんかないわ、それよりも結婚を考えているって云うのも本気・・・?」
「はい、彼女さえ良ければ・・・。」
「広瀬さん、真田君がこう言っているんだけど、あなたは・・・?」
「私、真田さんと結婚出来るなら、もう、何も入りません・・・。」
「まあ・・・、ご馳走さま・・・。」
「二人とも、入社して何年になるんだっけ・・・?」
「7年と6年です。」
「そう、・・・もうそんなになったのね、・・・・分かったわ!、私に任せてくれる?」
「宜しくお願いしま〜す。」
「それで、問題の広瀬さんのお父さんの事だけど・・・・・・」

二日後、霞は、真田と広瀬と共に、広瀬の自宅つまり桑島建設の社長宅を訪問した。

「よくいらっしゃいました。いつも娘の由美がお世話になり、感謝しております。」
「こちらこそ・・・、広瀬さんにはとても頑張って貰っており、助かっております。」
「それで、 今日お伺いしたのは・・・・・・・・」
真田の件を父に告げた。
「秋山先生、 私は親馬鹿かもしれませんが、この由美が可愛くて目に入れても痛くない程なんです。 全く良く出来た娘だと思っとるんですよ・・・。 ですから、この子にはそれなりの立派な男に嫁いで貰いたい、もしくは、うちの会社の中から優秀な者を婿にでも・・・、と思っておるんです。 別にそこの真田君とやらを、とやかく言うつもりではないのですが、とにかく美容師と結婚させる訳にはいかんのです、悪しからず・・・!」
「そうおっしゃらず・・・、この真田君は入社以来、とにかく一生懸命頑張って来た真面目な人で、由美さんが選んだ目に狂いはない立派な男性ですわ。 確かにまだ若いし、収入も少ない二人ですけれど、きっと素敵な夫婦になると思います・・・。是非結婚させてやって下さい。お願いします・・・!」
「お父さん、お願い!」
「お願いします!」
「とにかく駄目なものは駄目です・・・・・・」

結局、父親、広瀬社長のOKを貰うことが出来ないまま、その家を出た霞と真田であった。

「先生、済みません、無理言っちゃって・・・。」
「いいのよ・・・・。でも、ちょっと手強い相手だわね・・・・・」
「はい・・・・」
「大丈夫、任せておいて・・・、絶対落として見せるから・・・・。それよりも広瀬さんの事大事にしてあげてね・・・・。」
「はい・・・、それはもう・・・・・」
「大丈夫よ・・・、きっと結婚させて見せるから・・・・・・」

翌日の朝、マネージャーの結城を呼んで霞が話し始める・・・・
「ねえ、真田君と広瀬さんのお給料は、どのくらいになっているの・・・?」
「真田君が基本給十四万とコミッション約三万で、計十七万円前後。広瀬さんも同じく十三万五千円とコミッション約三万で、計十六万五千円程度です・・・。」
「二人あわせて三十三万五千円位・・・・か、何とかやっていけるかな・・・?」
「一緒にさせちゃうんですか・・・?」
「うん・・、あのお父さんだと、並大抵の事では許してくれそうもないもの・・・、ちょっと作戦を立てなくては・・・・・・」
「・・・・と、言いますと・・・?」
「マネージャー・・・、銀行で、百万位なら、私の個人融資を認めてくれるわよね。」

「ええ、たぶん・・・」
「それを真田君に頭金として貸してあげて、家を建てさせようかと思うの・・・・。」
「えっ、家ですか・・・?」
「そう・・・、まだ山向こうの土地だったら安く手に入るはずだから、彼等にでも家を建てることが出来ると思うの・・・、もちろん二十五年ローンで・・・・」
「そうですね・・・・・」
「広瀬さんと結婚する為に家を建てたとなったら、いくらあのお父さんが頑固者でも、嫌とは言えないでしょう・・・。 今時そんな殊勝な男、滅多にいないもの・・・ね。」
「なるほど・・・」

さっそく真田と広瀬を呼んで、その計画を伝える。
「えーっ、そんなお金迄貸して下さるんですか・・・?」
「うん、その代わり、仕事の方ばっちり頑張って貰うわよ・・・・」
「もちろんです、本当にいいんですか・・・?、信じられません・・・」
「広瀬さん!、真田君はあなたの為に家を建てるのよ・・・。だからあなたも協力して頑張ってあげてね・・・・」
「もちろんです!、本当に夢みたいです・・・・。」
「結婚して小さなアパート暮しも悪くはないけれど、どうせ苦労するなら大きな苦労をした方がいいわ・・・・・」
「ありがとうございます!」
「じゃあ、さっそくこの話進めるわね・・・、たぶん宝石の入った指輪だとか、立派な式は無いかもしれないけどそれでもいいでしょう・・・・。」
「ええ、もちろんです、私シアワセデス・・・・・」
「はいはい・・・・ご馳走さまで〜す!」

ウェーブカンパニーに、こうして一組のカップルが生れようとしていた・・・・

そんなある日、久し振りに寺田助役から電話が入った。
「もしもし、霞さん、寺田です・・・」
「寺田助役、お久し振りです、その節は・・・・・・」
「すっかりご無沙汰して申し訳ありませんでした。実は一度相談したい事があります、いつかこちらへ寄って貰えませんか?」
「はい、分かりました。明日の午後では・・・?」
「結構です、ではお待ちしています・・・。」

翌日、さっそく寺田助役を訪ねた霞に・・・・

「連絡が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。 じつは、ついこの間迄、ある企業と交渉していたんですが・・・・・・」
話の内容はこうであった・・・・・・
横井がまとめてくれたサーキットのプランと建設費の見積書を基に、寺田助役が真っ先に交渉した相手は東日観光であった・・・・・。
と言うのも、東日観光が、既に第三セクターで、秋田市郊外の太平山に、一大リゾート計画をスタートさせていたからであった。
サーキット予定地から、直線距離にして10km足らずのところに計画されていたそのリゾートプランは、総工費200億円を越える設備、特にスキー場、ゴルフ場、温泉等のレジャー施設の充実で、一年を通して観光客の動員を計るプランとして進められていた。
その中心となっている企業が東日観光で、リゾート開発では日本有数の実績をもつ企業であった。
この太平山リゾート計画と力を合わせていけば、サーキットの計画もお互いに相剰効果を生み出し、より確かなものになると考えたのであった・・・・。
「ところが、先週になって急に先方から『サーキットはやれない・・・!』と言って来たんです。」
「何故ですか・・・?」
「理由はいくつか考えられるんですが・・・、まあ、表向きはモータースポーツの経験がないから・・・、という事なのです。 実のところ、あのリゾート計画は当初の予定よりもずいぶん計画変更があり、アクセスの問題だとか、まだまだ難問を抱えているのは事実で、今のところは計画予算を増やす訳には行かない、やるなら単独でやってくれ・・・、というところだと思います。」
「なるほど・・・・・、それではサーキットの計画は、太平山リゾートとは関係なく進めても構わないんですか・・・?」
「同じ秋田市内の、しかも隣接する計画なので、あんまり刺激を与えるのは良くない事は確かです・・・。 しかしスポンサー探しをする上ではそんな事も言っていられないので、とりあえず白紙の状態に戻して、もう一度他の企業にあたって見る事にします・・・。もし、霞さんたちのルートでもどこか良さそうな企業があったら協力して下さると助かります・・・・。」
「分かりました!、私たちも少し心当たりをあたって見る事にします・・・・。」
「よろしく・・・」

「では、失礼します・・・」
ドアを開けて廊下に出た霞に向かって・・・・
「あっ、あなたは秋山先生!・・・」
広瀬由美の父、すなわち桑島建設の社長であった。

「あっ、広瀬さんのお父様・・・、先日はどうも・・・・」
「いやぁー、こちらこそ・・・・、ところで助役のところでしたか・・・?」
「ええ、ちょっと・・・・・」
「そうですか・・・、私もこれから会うんですよ・・・、では、これで・・・・・」
すれ違いに寺田の部屋をノックして入る社長であった・・・・。

二日後の夜。
「先生、広瀬さんのお父様がお見えになりました・・・。」
「はい、何かしら・・・?」
「こんばんわ!、先日はどうも失礼・・・!」
「じつは先日あの後、寺田助役から先生のお話はすっかり伺いました。 本当にご立派なお仕事をしていらっしゃる方で、関心いたしました・・・。」
「とんでもありません、寺田助役にはとても良くして頂いているものですから・・・。」
「秋田で仕事をしていらっしゃるのに、世界特許を持っておられるとか・・・。娘が勤めておるのに全く知りませんでした・・・。」
「それと、由美から聞きましたが、先日の真田君が由美の為に家を建てると言うではないですか・・・・。」

「ええ、真田君がそうしたい・・・と。」
「分かりました!、 そんな骨のある男なら、きっと由美を大切にしてくれるでしょうから、私の方からお願いします、是非娘を貰ってくれるように伝えて下さい。」
「本当ですか・・・?、きっと喜びますわ・・・・」
「今後とも二人の事をよろしくお願いします・・・。」

二人の幸せそうな顔が目に浮かび、思わず涙ぐむ霞であった・・・・・。



1988年は、ロータスチームが思った程ふるわず、前年度チャンピオンのネルソン・ピケでさえも、苦戦を強いられていた。

それにひきかえマクラーレンチームの二台は、16戦中15勝という快挙を成し遂げ、コンストラクターと、ドライバーの両方のチャンピオンを決め、またしても完全制覇の偉業を達成したのであった。

寺田助役と霞たちの両方のルートでスポンサー探しをしては見たものの、なかなか良い感触が得られないままに十二月を迎えてしまった。

ある日、F−1推進委員会のメンバー、ドクター白井から電話が入る。
「霞さん、ちょっと急いで耳に入れたい事があるんだけれど、今夜空いてる・・・?」
「ええ・・・」
「じゃあ、八時にそちらに行きます。」約束の時間にドクター白井は、新聞記者の白石をつれて表われた。
「じつは、さっき白石君が、とんでもない情報を持って来たものだから、真っ先に霞さんの耳に入れておこうと思って・・・・・。」
白石が話し始めた・・・・

「職業柄、まだ他の人には話せない情報なんで・・・。ここだけにしておいて下さい。じつは、寺田助役がやめるかもしれないという噂が流れているんです。」
「本当ですか・・・?」
「まだ、ほんの噂程度の段階なんだけど、僕達の噂というのは、けっこう有りの事が多いんですよ。」
「・・・でしょうね・・・。で、理由は・・・?」
「寺田助役は、もともと通産省の官僚だった方なのですが、今の高倉市長が是非に・・・という事で秋田に呼んだのです。」
「ところが、来春の市長選では、高倉市長は任期が長く続いたのと、体の調子が余り良くないという理由で出馬しない可能性が強いらしいのです。」
「となると、寺田助役としては次に行く所がなくなるかもしれないし、ちょうど通産省の方から戻って来るように話が来ているらしいので、どうもその方向に話がまとまるのではないか・・・・となったのです。」
「なるほど・・・・」
「それで、今我々の窓口になっている寺田助役がいなくなったら、また振り出しに戻る事になりはしないかと、心配をした訳なんです。」
「本当に、そんな事にならなければいいけれど・・・・。」
「そこで、相談なんだけど・・・、市長が変わって寺田助役がいなくなっても我々のサーキットプランが潰されないように、何か手を打つ必要はないだろうかと・・・・。」
「たぶん、ここ数日中には決まるだろうけれど・・・・。」
「これはおおごと・・・・ね」
「だろう・・・・。」

しばらく考えていた霞は、しっかりと口を結び、考えをまとめた。
「これは、あくまでも私の気持ちなんですけど・・・・」
霞が静かに話し始めた。
「私たちのプランがここまで進展したのも、寺田助役の助力が大きかったんだと思うの・・・。だから、今、もし助役がいなくなってしまったら、もしかすると話が白紙に戻ってしまうかもしれない・・・・。でも、かといって他の人をあてにしてうろたえるよりは、このまま寺田助役一本で、任せて見た方がいい様な気がするの。 きっとあの方ならもし辞めるにしても、次の手立てを考えて下さるだろうし、今私たちが下手に動くとかえってややこしくなるから・・・・。 それよりも、いっその事寺田助役に会って本当の事を直接聞いた方が早いかも・・・・・。」
「分かった、霞さんの言うとおり、我々は何もしない方が正解かもしれない・・・。」
「霞さん!、さっそく助役と会って下さい・・・・・」


数日後、霞は寺田助役の部屋を訪ねる。
「助役、お久し振りです・・・・。その節はどうも・・・」
「良くいらっしゃいました。その後どうですか・・・?」
「私の方もいろいろと手はまわしているんですが、なかなか良い返事を頂けなくて・・、もう少し時間がかかりそうです・・・・。」
「そうですか・・・、私の方も同じです・・・。」
「でも、まだ諦めてはいません、きっと何処かに、良い企業が現われる筈です・・。」
「そうですとも、気長に探しましょう・・・・。」
「ところで寺田助役・・・、これは噂なんですが、助役をお辞めになられるかもしれないって本当ですか・・・?」
「ヘェー、霞さんも耳が早いですねー、何処でそんな噂を聞きつけたんですか・・・?、大した情報網ですね・・・・。」
「ということは、本当なんですか・・・?」
「確かに数日前までは、その事で私も悩んでいた事は確かです。と言いますのも、私はあくまで高倉市長に呼ばれて助役になった人間ですから・・・。 市長が『降りる・・。』と言えば、私は自動的に助役ではなくなるのですから・・・・。」
「でも、安心して下さい。 高倉市長の健康状態も落ち着いて、もう一期務めて貰う事になりましたから・・・・。 なんと言っても、来年は市政百年の記念すべき年ですから、


是非とも高倉市長に頑張って貰わなくては始まりません・・・・。」
「もちろん年明けの選挙が終らなければ、何とも言えませんが、 まあ、もう一期は固いところでしょう・・・。ですから、私もこのまま今の仕事を継続する事になりそうです。
いずれにせよ、サーキットは何が何でも物にするつもりですから、霞先生には頑張って貰いますよ、今後とも・・・・。」
「もちろんです!、それを聞いて安心しました。」

寺田助役の固い決心を聞いて、ますますファイトが沸いてきた霞であった。
だが、76億と云う金額は、霞にとってはまだ想像すらつかない大きな額であった。


十二月も半ばを過ぎた頃、霞は久し振りに沢木と会って食事をする。
「サーキットの話は、その後いかがですか?。」
「ええ、まだスポンサーは見つかっていませんけれど・・・・。」
寺田助役との話の内容を、詳しく伝える霞であった。
「そうですか・・・、それなら後はお金次第と云うところですね・・・。きっと現われますよ、きっと・・・・・!」
「私もそう信じています・・・・。」
「ところで、クリスマスの夜は、霞さん空いていますか?」
「ええ、・・・」
「もし良ければ私に付き合って貰えませんか?・・・、実は、素敵なコンサートのチケットが手に入ったんです・・・。」
「嬉しい!・・・、でも本当に私なんかでよろしいんですか・・・?」
「もちろんです!、霞さんの為に取ったチケットです。」
「ありがとうございます・・・。」

沢木が霞を誘って連れ出したそのコンサートは、八ケ岳の高原にある音楽堂で行なわれるクラシックのコンサートであった。
うっすらと雪に覆われたその音楽堂は、沢木の友人が設計したもので、数々の建築専門誌にも取り上げられた素晴らしいものであった。

その日のプレイヤーはクロノスカルテットで、クリスマスの夜にふさわしい優しく静かなその調べは、二人の心をしっかりと、暖かく包み込むものであった。
コンサートが終って雪に包まれた音楽堂を出た二人は、山の音楽堂の知的で上品なたたずまいに、すっかりと酔っていた。

まだ紅潮している頬に、冷たい夜の闇が小刻みに息を吹き掛け・・・、沢木のコートの腕にしっかりとしがみつく霞であった。
「もし・・、もしも、霞さんさえ構わなければ、ここのロッジに一泊してみませんか?」
「ちょっと変な話なんですが、ここのお風呂がとても素晴らしいんです・・・。」
「素敵・・・!、是非泊まってみたい・・・・!」
「ちょっと待ってて下さい・・・。」
ジャガーをロッジのパーキングに置いて、沢木はフロントのある建物に入っていく。
ジャガーの助手席にひとりで座っていると・・・、いつか沢木に無理を言って田沢湖まで来て貰った日の朝、二人で走った湖畔のドライブの事を思いだして、胸が熱くなる霞であった。
やがて、沢木が戻って来る・・・
「霞さん、ゴメン・・・!、今日はコンサートがあったんで、部屋が一杯でした・・。」
「いいんです、また今度楽しみにしておきますから・・・・」

幾分元気がなくなった風に見える沢木であったが、気を取り直して車をスタートさせようとシフトを入れた時・・・・!
ロッジの玄関から制服の若い男が駆け寄って来る・・・。
「先程は失礼しました。 じつは、たった今、予定なさっていた方が、コンサートだけでお帰りになる事になった為、キャンセルになりました。 もし、一部屋だけで良ければご用意出来るのですが・・・・。」
「二部屋はどうしても無理ですか?」
「申し訳ございません、一室だけなら何とか・・・・。」
「先生・・・!、私、先生と一緒でも構いません・・・。」
「良いんですか・・・?」
「はい!」
「分かりました、それではその部屋をお願いします。」
「かしこまりました。 どうぞお荷物を・・・・」

広々としたロビーと、静かな明りが灯るそのホテルは、都会の一流ホテルにも負けないどっしりと重厚なたたずまいを見せていた。
沢木と霞が通された部屋は一階のツインルームであった。
テラスに出ると、まるでトナカイが出てきそうな森の中そのままで、すっかりと霞の心を捕らえてしまった・・・・。

「先生・・!、素敵な時間を私にくださって、本当にありがとうございます・・・。」
「霞さん、僕の方こそ、今晩あなたと一緒じゃなかったら、きっと独りでゴロゴロしていたでしょうから、とてもすばらしいクリスマスの夜にして貰い感謝しています・・・、ありがとう・・・・!」
「これ!、私からのクリスマスプレゼント・・・・」
そう言って沢木の前に小さな包みを差し出す。
「ありがとう、良いんですかこんな物まで頂いて・・・・」
「ねえ、先生、すぐに開けて下さい・・・・」
霞に催促されて、沢木は嬉しそうにその包みを開ける。
中から出て来た黒いフェルトの綺麗な箱の蓋を開けると、太いモンブランの万年筆と、ペンの形をしたガラスの瓶に入ったインクが顔を出す・・・。
「うわぁー、この太字のモンブラン、僕大好きなんです・・・・!、良いんですか、こんな素敵な物を貰って・・・、本当にどうもありがとう・・・。」
「私もその太いモンブランがとても好きで、先生に絶対似合うと思って選んだんです。」
「ありがとう・・・、大切にします。」

「それじゃあ・・・、今度は僕からのプレゼントを・・・・」
そう言って書類ケースを拡げると、中から大きな薄い箱を取り出した・・・
「これ・・・、霞さんに・・・・」
「私も頂けるんですか?」
「もちろんです!、早く開けてみて・・・・。」
リボンを解いて、蓋を開いたその箱の中からA3版位の額が出て来た。
エッチングで優しい女の人の顔が描かれているその作品を、霞は何処かで見た事があるような気がした・・・・。」
「有元利夫と云う画家の作品です・・・。」
それはやはり霞が最も好きな画家の名前であった・・・・。
若くして亡くなった彼の作品は、秋田市の美術館でも遺作展が開かれ、霞も二度ほど足を運び、感動したのを覚えていた・・・。

決してきらびやかでは無いその色遣いも、いつも決まって優しい女性を描くその作風もそして小品を好んで描く事も、霞はとても気に入っていた。
「今では、彼の作品も、絵の方は全く手に入らなくなりましたが、リトグラフはまだ何とかなるんですよ・・。これは霞さんに是非飾って欲しいと思って手に入れてきました。」
「素敵です・・、私、有元利夫の絵が大好きだったんです・・・。ほら、『雲を造る人』とか、『想い出を運ぶ人』とか・・・・・。」

「ほう・・・、霞さんも知っていたんですか・・・。それは良かった・・!」
「ありがとうございます。 大切にします。」


翌朝・・・・
森の見えるレストランで朝食を摂りながら・・・・・
「じつは、昨夜霞さんに言うのを忘れていた事があるんです・・・。」
「何ですか?」
「たしか霞さんが関わっているサーキットの件、スポンサーを探しているって言ってたよね・・!」
「ええ、プランニングは大体OKで、後は出資してくれる企業が見つかればすぐにでも実現に向けて動けるところなんです・・・・。」
「その件なんだけど、僕が今携わっている北海道のリゾート開発の会社の部長が、面白いから一度詳しく聞かせてくれって言ってるんだけど・・・、どう・・・?」
「先方はしっかりした会社だから間違いはない・・・!、保証するよ・・・。」
「本当ですか・・・?、是非紹介して下さい、助かります。」
「分かった、じゃあ今、食事が終ったらすぐに電話をしてみよう・・・!」

沢木の対応はいつもの事だが素早く、その日の夜にさっそく先方の会社を訪れる事に決まる。

その日二人が東京に戻ったのは、夕方、幾分暗くなり掛けた頃であった。

雪の山の中から戻ったジャガーは、少しドロが跳ねていたが、霞はそれを二人の想い出の中に付け加えたい衝動にかられ、指で撫でてみる・・・・。
新宿の副都心に、新しく出来たばかりのビルにあるその会社は、株式会社共栄と云う一流企業であった。
「沢木と云いますが、斉藤部長をお願いします。」
「かしこまりました、少々お待ちください。」
間もなく、一人の温厚そうな紳士が現われる・・・

「斉藤です、沢木先生からお噂は伺っております、なるほど噂どおりの方ですね・・。」
「まあ・・・、どんな噂でしょう・・・?」
「秋田にとても綺麗な女性がいて、ずいぶん無鉄砲な事を言い出す・・・と。 でもそれが又、とっても素敵で、つい助けたくなるんだ・・・・とね。」
「まあ・・・、済みません!、無理を云って・・・・。」
「ハハハ・・・・、良いんですよ!、いつも固い事ばっかりやっていると夢が無くていけません。 時にはロマンのある事に手を染めないと頭が老化してしまいます・・・。」
「ところで部長・・!、さっき確認したんですけれど、まだスポンサーは決まっていないらしいんです。 もしプランを聞いて、良ければ是非一口乗ってやって貰えませんか?、私からもお願いします・・・。」
「分かりました、私どもの社でも今、モータースポーツは、将来有望な事業として注目をしていたところなのです・・・・。」
「それでは霞さん、部長にご説明を・・・・・」
「はい!・・・・・・・・・」
やがて霞の説明が始まり、三人の瞳に熱がこもる・・・・・・。
ホンダの横井氏が見つけた東台沢の事・・・・。
寺田助役が積極的に協力してくれている事・・・・・。
F−1放映推進委員会の事・・・・・。などなど。



その翌日、午前中の飛行機で秋田に帰った霞は、年末年始の休みに入る為、どことなくざわついている市役所を訪れる。
「助役、年末のお忙しいところに無理にお伺いして済みません・・・。」
「いいんですよ、もうだいたい今年の仕事は終り、あとは休みの前の確認作業だけですから・・。」
「じつは・・・・」
霞は、昨日の夕方、新宿の共栄本社ビルで交わした斉藤部長との話を詳しく報告した。
「本当ですか・・・・?、それはあり難い・・・!」
「もし先方さえ良ければ、正月明けにすぐにでも会いましょう・・・!」
「分かりました、さっそく連絡を取ります。」
「しかし、もしこれが決まれば、コマはすべて揃った事になりますね・・・。いよいよ動き出せます・・。良かった!、本当に良かった、霞さん、ありがとう・・・!」
「とんでもありません、寺田助役の情熱が通じたんです・・・。これからも是非頑張って下さい・・・・。」
「もちろんです!、 そうか・・・、世界一のサーキットか・・・・。」

その日すぐに、共栄の斉藤部長に連絡を取り、正月明け五日の午後に、市役所で会う事に決まったのであった。

年が明けてまだ間もない、五日の朝の飛行機で、斉藤部長は秋田を訪れた。
まっすぐに現地<東台沢>へ向かう事になった車の中で、斉藤は霞に話しかける。
「先日はわざわざ社迄出向いて頂いてありがとうございました。沢木先生も、くれぐれもよろしく云っておられました・・・・。」
「そうですか・・、こちらこそ、こんな雪の中までわざわざお越し頂いて、本当にありがとうございます・・・・。」
「しかし・・・、沢木先生があなたの事を気に掛けるのが分かるような気がします。何と云うか・・・、どことなく不思議な方ですね・・・、霞さんと云う方は・・・!」
「そうでしょうか・・・・」
突然の言葉に、思わず頬を赤らめる霞であった。
「秋田美人と云うのは、単なる色白の美人・・、と云うだけでなく、何処かに真の強さ、そう、きっと、この雪の重さとか冷たさにも耐え抜くだけの、忍耐強さと優しさを秘めた魅力があるのでしょうね・・・・。」
「ありがとうございます・・・。でも私なんか、まだまだ秋田美人とは云えません!、もっと綺麗な女性が、たくさんいるんですよ、この秋田には・・・・・・。」
「そうですか・・・、それは楽しみです。 考えてみると有名な美人の地ですものね、ここは・・・・・・!。・・・世界一のサーキットと美人の街・・・・・・ですか。・・・
うーむ、これは素晴らしい・・・!」

話が弾んでいる間に、やがて道が細くなり、田んぼの上に美しく降り積もった雪のクッションが、柔らかな膨らみを見せる中を、車は飛ばして行く。
アスファルトの路面だけがスパイクタイヤで削り取られて痛々しい肌を見せているが、周囲は美しい雪景色が続く・・・・。
緩い上り坂に差し掛かり、2km程上った所で、右手に広々と拡がる東台沢が見渡せる場所に着く・・・。
車を止めた霞は・・・
「ここが東台沢です・・!、先程の登り口の所を、高速道が通る事になっています。」
「なるほど・・・、想像していた以上に広大な場所ですね・・・。」
「うん・・・!、これなら土木工事も、環境破壊も、最小限で済みます。 確かに理想的な場所ですね・・・。」
「ちなみに・・・、住宅は無いんですか?」
「この予定地、四十万坪の中に、民家は一軒もありません。 田畑がほんの少し有りますが、数える程です。 そして一応調べたのですが、土地の所有者は、2/3が秋田市で、残った1/3が、添川地区の、部落所有という事で、個人所有の土地はほとんど有りません。」
「そうですか・・!、それは助かる。 うん、全く素晴らしい場所です・・・。」
「分かりました・・!、何が何でもこのプランを物にするつもりでやりますから、楽しみにしていてください・・・・。」
「本当ですか?、ありがとうございます・・・。」
十五分ほどその雪の山肌を眺めた後、斉藤と霞は、市役所の寺田助役の部屋を訪れる。
「良くいらっしゃいました、寺田です・・・。」
「始めまして、共栄の斉藤です。」
「実は先程斉藤部長に現場を見て頂いたんですが、やはり、とても条件の良い場所だそうです・・・。」
「そうですか、やはり・・・」
「ええ、全く素晴らしいと思います・・・、もしよろしければ出資企業は私どもが責任を持って集めますから、このサーキット建設の話を実現に向けて進めて頂けませんか?」
「本当ですか?、それは有り難い・・・!、それではすぐにでも霞先生たちと相談をして取りかかる事にします。 秋田市としても全面的にバックアップしますから、是非素晴らしいサーキットを造って下さい・・・。」

その日の最終便でとんぼ帰りをした斉藤部長を見送った霞は、又ひとつ夢が実現に近づく足音を聞いたような気がした。


つづく・・・

 

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